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2025年3月3日月曜日

雑誌あるいは雑文というものについて

唐沢俊一関連のツイートからネットで読んだもの

(この記事はTumblrに書いたものの転載です)
以下、昨年に唐沢氏が亡くなった日周辺から読んだものを引用しつつ羅列する。感想は後述。
晩年に村上春樹の生原稿を売り払ったという安原顕について。

"出版界という領域を超えたホームページを自分の“会社”とすれば、読書人としてはこれまで通り満喫できるし、編集者としてのトラブルはいっさい生じない。ヤスケンは、その中で気ままに読者と交信することができるのだ"

"私も、栗本さんの八面六臂の活躍を見ていましたが、その少し下の世代から「若い作家志望者があこがれる理想のパターン」(唐沢)と思われていたとは、想像外でした。

というのも、栗本さんの出発点については、ある了解があったからです。

「彼女は、大作家になることを、最初から諦めている」

という。"

"それから……その頃からである、どうも彼女の作品、いや、彼女の書く文章そのものに変調が現れ始めたのは。"
唐沢俊一ホームページ :: 日記 :: 2009年 :: 05月 :: 27日(水曜日)

"あとは、「唐沢俊一の追"討"文の中で栗本薫への追悼だけはよかった」という趣旨のツイートを見たが、あの追悼文が有名ファンサイトからの「無断引用」で、ファンサイトの運営者が怒っていたことは、当時栗本薫ファンだった人のあいだでは有名。"
これは詳細が確認できなかったので参考ということで。

"こんな、ひどい文章を垂れ流して、ファン相手に生温いお友達ごっこに彼女は興じて―― 唖然としながらも、しかしなぜだろう、不思議と、彼女がこの地に流れ着いてしまった、その理由がなんとなくわかる。

彼女がたどり着きたかったのは、気鋭の作家という位置でも、現代の語り部という位置でもなかった。"
苦い追想 ~栗本薫~

"ここ2日ばかり、信用のおける筋から入手した話では剽窃騒動に関係なく、演劇に没頭して以降は既に文筆業の熱意を失っており、文章の仕事を依頼したクライアントに多大な迷惑をかけていたという。"
唐沢俊一氏のおもひで|のざわよしのり

以下動画。

(その1)復活!水道橋博士×町山智浩 唐沢俊一と雑誌時代の『死』#博士町山 - YouTube

(その2)復活!水道橋博士×町山智浩 唐沢俊一と雑誌時代の『死』#博士町山 - YouTube

(その3)復活!水道橋博士×町山智浩 唐沢俊一と雑誌時代の『死』#博士町山 - YouTube

後半の「雑誌文化の衰退」あたりはやはり興味深い。

我々は大きなものをごっそりと失った、という感慨はあらためてある。町山氏はイラストに言及していたが、ほかに写真、編集、印刷といった広告を含めたデザイン文化が失われつつある。

ZINEなどを見ると、こういった巨大な文化が滅びたあとに穴居生活から始める世界、のようなものを連想する。それはネガティブな印象ではないが、おそらく別の文化として成長するものなのだろう。その先にかつてのような雑誌文化の再興はない。

ただ雑誌文化はその作り手と文化が消えつつあるだけで、雑誌そのものはさまざまな形で残っているのだが、ネットの文化、特にブログなどのネットテキスト文化はどんどん消えていて、それこそ跡形もない、というものもある(WebArchiveはすべてを拾っているわけではない)。それがこれからどんな形へと移行していくのか、さまざまな試みがあるがまだよくわからない。ただ後年になっての検証は大変だろう。

"亡くなられた唐沢俊一さんについて、元担当編集者として思ったことをFacebookに書いてみました。何かのご参考になれば。" Shuhei Kawata on X

これも近いところにいた人による興味深いテキスト。

"唐沢氏つながりで町山智浩×水道橋博士による唐沢俊一動画についての話。実はあの動画の結論である、雑誌文化と「雑文書き」の終焉については、まだまともだった頃のご当人自身懸念していたとのこと。雑誌は寄席のようなもので、大御所をトリに中小の書き手達が活躍できる場であるのだから、と" 崎田薫 on X

本人にも自覚があったと。
 

リンク先を読んだ感想

唐沢俊一氏の本や雑学、事件や本人についてはあまり興味はない。短い文章やブログはいくつか読んでいるが、これといった感想は持っていない。読書範囲での接点がほとんどなかったせいもある。

唐沢俊一はなぜYouTubeに行って小銭を稼がなかったのかという話を見かけたが、それは本人にしかわからないだろう。人前に出ることには慣れていただろうに、なにかこだわりがあったのかもしれない。テレビに複数回出て、動画メディアは自分には合わないと感じたのかもしれない。

雑文を書かなくなった原因については「盗作騒ぎのあと、書く場がなくなっていった」「盗作騒ぎの前ぐらいから、そもそも書かなくなっていた」「演劇の方に行って書かなくなった」という説があるようだ。町山氏によれば、雑誌がなくなって書く場所がなくなったということになる。

ひとつ思うのは、90年代から始まって2000年代後半にはネットに雑文を書く人がかなり増え、唐沢俊一レベルの雑文にはあまり出番がなくなったであろうということ。また、そういうところで競うためのベースになるもの、専門的なものがなかったというのも大きいだろうと思う。

90年代以降に顕著だったサブカル的なもの、というのは基本的に裏付けがあろうがなかろうが「面白ければそれでいい」(あるいは「面白がり」)がベースになっていて、なんであれ通俗的な解釈というのはそれでもいいかもしれないが、ネットの時代になるとそれらの粗はすぐに指摘されるようになる。裏付けの甘いものは権威として成立しにくい時代になったということだが、サブカル的なものの裏付けはとくに甘かったということはあるだろう。それ故にあれだけ乱造できたのではないか。

底の浅い「面白ければいい」にはつねに冷水が浴びせられるようになって、いくらそれを積み上げてもなんらかの権威のベースにならない、となれば先は見えている。それに雑学であれ、漫画アニメ映画であれ、「ネタになるようなもの」というのは無限ではない。唐沢が何度も同じネタを繰り返してしまったのも、とくによく知るわけでもないUFOに手を出したのも、そういうことなのだろう。

「書かなくなった」という理由には「書く気(場)がなくなった」というのもあるかもしれないが、そもそも書くネタがなくなったという可能性は高いのではないか。

"私には私の目算がありました。出版に軸足を置きながら、映画やテレビ、音楽、イベントなどさまざまな業界に顔をつっこんで、「今後最もアツくなるのは演劇の世界だ」という確信を得たということです。ここに地歩を築いておくことはめぐりめぐって、モノカキとしての自分に絶対有利に働く(少なくともサブカルチャーの世界に固執するよりは)という結論を出し、その世界の勉強を始めました"
唐沢俊一ホームページ :: ニュース :: イベント :: 12月14日投稿
(2011年/強調は引用者による)

ここなどを読むと、サブカルへの見極めのようなものがあったようにも見える。

しかし距離をおいて見ると、唐沢氏の後半生の生き方にはどこか破滅型作家と似たところがあるように思えるのだけれども、そのことを指摘している人は見かけなかった。それはおそらく彼が生み出したものとその破滅性のようなものがあまり結びつかなかったからだろう。

今回、唐沢氏死去について旧Twitterを見ていて、栗本薫が亡くなったときに見られたような熱のあるファンの話はほぼ見かけなかった。これもひとつの特徴だろう。雑文とはそういうものなのかもしれない。それはおそらくネット上のさまざまな雑文についても同様なのだろう(ここの文章も含め)。しかし「書き捨て」のような潔さもまた雑文の本質であるとするなら、消えていくのもまたよしとするべきなのかもしれない。

唐沢俊一と関連して見かけた栗本薫の共通点というと、やはり文筆から演劇へと惹かれていった点ではないか。そしてその違いは「稼いでる時期」による、自身の生活への影響の大きさかもしれない。

唐沢の年譜を見るに、おそらくは演劇に深く関わりはじめた2011年(53歳頃)が転機となり、2014年以降はほとんど文筆活動をしていないように見える。「演劇にのめり込んだ」と見ていいだろう(裏モノ日記も2013で終わり、のちに演劇ブログを書くようになっている)。盗作騒動があったのが2007年だから、演劇はそこから4、5年ほどということになる。90年代後半から0年代初めが文筆活動の全盛期で、そこからいろいろと怪しくなっていった、という言い方はできるかもしれない。

演劇というものには個人の芸能や、映画のような大きな集団による芸能とはまた違った、その中間的な芸能という魅力があるのかもしれないということはしばしば考えるのだけど、実際に中で携わった経験があるわけではないので真相はわからない。

しかし文芸からそちらへ行った人というのは、おそらくそこに文芸とまったく違う魅力、文芸では埋めることのできない穴を埋められるものを見つけたのだろう。それがなにに由来しているかは、人それぞれだろうと思うが。
 

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